自我なんて存在しないという考え方

こんにちは、沙耶です。タイムリープをするということは、自分の心を過去に送るということですよね。しかし、そもそも自分の心、もっと言えば自分そのものとは何なのでしょうか。それに答えようとしたのが仏教をはじめとする東洋哲学です。

西洋の哲学は「世界とは何か」というところから始まっています。一方、東洋の哲学は「自分とは何か」というところから始まります。その結果、東洋哲学は西洋で言う唯心論とは少し違う道を歩んでいます。ある日のチャットは侍さんが東洋哲学を語るところから始まります。


分別智とは既存の知識を用いて発展して学ぶことなんだが
足し算が分かれば掛け算が分かり、掛け算が分かれば割り算が分かりという感じで進んでいき微分積分みたいなことまでわかることだな
こういう学習の仕方を分別智というのだが、
そういうのは言葉があって初めてわかるものであって
言葉なくして分からない。
 掛け算とは何かと聞かれれば、かけられる数をかける数だけ足し算すること、と答えられます。しかしこの説明を理解するには足し算を知っていること、そして足し算という言葉を知っている必要があります。足し算の意味を説明しなければならないのは、足し算を知らない幼児だけではなく、additionを知っていても足し算という言葉を知らない外国人でも同じですね。

言葉といえば人は歩くという言葉を使うが、歩くという言葉は実際には歩くものがいるということを示す言葉であって歩くという何かが実態を持つことはあり得ない
歩くというものが実態を持つと歩くものが歩くという風に2回繰り返すことになる
頭痛が痛いや、当たるパンチが当たるみたいな感じで痛み本来には実体はないのにさもあるようにいう
 砂山のパラドクスというものがあります。砂山から砂を1粒取っても砂山ですが、1粒取るのを何回も続けると砂がなくなってしまいます。一体どこから砂山じゃなくなるのか、という問題ですが、ここでは「砂山」という実体はなく、世界の一部を切り取って「砂山」と呼んでいるに過ぎないと考えているのです。

つまり本来言葉というものは存在していないものに勝手に名前などを付けたものということになる
区別のための境界線だな
でないとすべてが同じになると思われたからだ
区別(差異)の体系によって物事(世界)を把握する
だからこれを「分別(区別)」智という
しかし人間には分別智以外にも知る方法がある
空我
眼が見えない子供は、ボールが無くなるだけで、世界が無いって思うらしいね

確かに
それは無分別智というんだが、それは具体的には説明できない
赤ちゃんが物を知らないのにどうやって理解していくのか?ということなのだが
ではどうやって無分別智に至るかというと、それは分別をやめることである
もう誰も聞いてない
沙耶
話がどこに進んでるのかわかんない

うむそうか
私とは認識できない干渉できないものだから無い無いで消せないのだ
最終的には認識するもの認識されるものに二分化されるのだ
万物が認識されるものであるとするならば万物と認識するものの境界線をなくせばその境地に到達することができる
これが結論だ
何言ってるんだこいつ状態だな
ワロタ
 認識についてこれより前に説明していましたが、この後にも説明します。簡単に言うと、「万物」は映画のようなもので、「私」つまり認識するものは映画を見ているに過ぎないそうです。しかしあまりにも熱中して映画を見ているせいで、映画の主人公が受ける困難に何も関係ない「私」が苦痛を受けていると考えているのです。

万物と認識するものの境界線をなくすってすごくわかりやすい言葉なんだがな
「万物」と「認識するもの」の境界線をなくす
沙耶
わかるけどなくせるもの?

なくせる
沙耶
どうやって?

それは理屈では話せない
だから般若心経では最終的に呪文に頼る
考えることをやめる
沙耶
ぎゃーてーぎゃーてー
あんだま
ハラーギャーテー

ギャーテーギャーテー
そうそれ
あんだま
ぼーじーそわかー

最後にソワカ(グッドラック)と言って万物という海に落とす
 写経で書いたり、葬式で読んだりする般若心経の最後は、「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。(ぎゃていぎゃてい、はらぎゃてい、はらそぎゃてい、ぼじそわか。)」です。これはサンスクリット語から音だけを写したものであり中国語ではありません。

認識するものとされるものが融合し一つとなるそれは視ることも感じることもできない
説明できないになる
この呪文に意味はない
だから翻訳されない
そもそも言葉による解釈が分別なのだから言葉で表されたら意味ない
この境地に至ったときは仕事さぼってるときだったんだが
なんとも言えん言葉には表せん感じになってニンマリ笑ってた
ナツ
だれでも到達できるものなのか?

@ナツ 真に理解すればできる
最後に見たものは認識するものと万物
ナツ
理解した後の侍には心境以外に変化はあったか?

あったぞ
 言葉で分別していたものを全て戻すと、万物は一つになります。そして最後には万物とそれを認識している「私」が残ります。この二つすら言葉で分別していたもので、それを戻すと「認識するもの」がなくなります。つまり全ては無ということだそうです。

逆に一つとなったものを二分化(自分と万物)に分けたものがこの世界の真実
だからこの世は無で構成されているということに気づいた
つまり苦しみも本質は無である
だが苦しいものは苦しいなぜ苦しいのか?
肉体に執着するからである
ナツ
侍は解脱したっていう認識でいいのか

俺も本質は無
ただそういう現象である
完全に解脱したかというと違う
俺は半分解脱している。仏教に救われている状態にある
完全に解脱していないからこそ楽しみも感じるし、喜びも感じる
だが本来は感じるということは万物の海から区別した現象であるから、本来は無である
ここからは侍さんとナツさんの議論になりますが、内容が重複することがあります。
ナツ
本来は無っていうのは結局どういうことなんだ?

うむ結局二分化して一つになり無になる
認識するものとされるもの
ナツ
侍の悟りってやつは本質的なものである保証はないよな

だから悟りも無であるのだよ
般若心経はすべてを否定し全てを無にする
ナツ
あくまで侍の意見であってそれが真実と決めるのは早いんじゃないのか?

ハッハッハッハッハ
まさにそれが真に理解していないということなのだ
おそらく西洋哲学的発想ではそうなる
ナツ
西洋哲学が真実なのか?

真実とは無である
ナツ
この世界は無であるのか?

うむ無である

だれがいつ決めるんだ?

誰がいつ決めたというものはない
この世は絶対であるという風にとらえるのが科学だ
ナツ
そもそも無ってなんだ
無が在るのはおかしくないか?

無はない
無だから有になるなんておかしなことを言う人がいるが有は無だ
ナツ
ないもの形どられる現象とはなんだ?

もとは無だったものを二分化したのだ
だから有という実体のないものが現れる
そもそも無は実体がないだろう?
ナツ
無は二分化できるのか?

うむ、本来はできない
だがそれをしているのが我々なのだ
 現代の自然科学に代表される考え方をするナツさんと、仏教哲学の考え方をする侍さんの議論になりました。この2つの考え方の大きな違いは、何を基準に考えるかということです。自然科学の考え方は「世界はどうなっているのか」です。世界とは何かを考えているのだから、世界を否定してしまうのは元も子もありません。一方、仏教哲学の考え方は「自分とは何か」です。なので自分は世界と同一のもので、それを認識する人がいない以上は存在しないと言った方が近いと言っても成立するのです。
ナツ
我々というのは?

認識するものだ
ナツ
人間?それとも生物自体?
それとももっと別の何か?
万物か?

だから認識するものだ
万物は認識されるものだ
 インド哲学ではこの認識するものをアートマンだとか、我だとか言います。認識するものについて西洋哲学で考えた思考実験にマリーの部屋というものがあります。マリーは生まれた時から白黒の部屋に住んでいて色彩を見たことがありません。しかしマリーは本で得た知識によって科学や芸術を含めた色彩の知識については超一流です。そんなマリーが白黒の部屋から出て実際に色彩を見たとしたら、そこから「色彩はこういう風に見えるんだ」という新しい知識が生まれるはずです。つまり、知識だけではわからない「色のイメージ」を受け取る「認識するもの」があるはずです。
ナツ
認識するものと認識しないものの違いはなんだ?

認識しないものは無だろう
認識しないということはできないのだから
意図的にしないというのであれば本来は認識できるものであるということになる
ナツ
では認識とは?

認識とは感じることだ
ナツ
それがそれであること、それは物質的にそうだと認識するってことか ?

物質も本来は無だ
ただ本来は無いものに線引きをしてその現象に名前をつけているにすぎない
ナツ
では君がいま打鍵しているPCは本来は無いものなのか?

うむないな
これは映画だからな
私が認識している一部に過ぎない
ナツ
すまない映画というひとくくりにされても理解が追い付かなくてな

うむ先ほど説明したのだが
映画の主人公にのめりこんでその主人公の気持ちになってしまっても
実際には私は観客だから攻撃を受けても痛くはない
つまり私というものは認識するものであって肉体に執着しているからこそ苦しみが生じる
映画の主人公の腕が吹き飛んでも私には影響しない
なぜなら私は俯瞰しているからだ
であれば肉体に執着しなければ痛みというものは本来無であることに気づく
ここで認識の話になりました。私に説明したときと同じ喩えを使っています。
ナツ
のめりこむことと俯瞰することが同義であるとは思えない
肉体に伴う痛みとは身体的苦痛であろう

それ本来は無なのだ
ナツ
映画をみてショッキングなシーンで精神的苦痛を感じることもあろう

それも無なのだ
仮に苦痛を感じるとしたら、それは映画を見ている私を見ている映画となる
ナツ
映画の話をして結局無になってしまうのは少々困惑してしまうな
ではその映画を見ているのは私だがそれも映画であるのか?

痛みを感じればそうなる
ナツ
無限遡行ではないか?

うむまさに無限遡行だ
だから認識するものは認識されない
結局無限遡行というヘンテコなものではないと説明するのであればだが
だから私が私を認識するという関係性はないのである
 無限遡行とは、どこまで行っても終わりがないということです。この世界を認識するものを1とすると、1を認識する2があり、2を認識する3がある、とすると無限に続いてしまいます。つまり、どこかで認識されないものがあるわけです。
ナツ
うーむ、理解に苦しむな

その映画の主人公はまるで私のようだ
私はこの主人公と似た境遇にある
だから主人公が悲しめば私も悲しい
だが実際にはその主人公とは何の関係性もない
所詮映画は映画私には何の関係性もない
つまり肉体とは映画だ
私が私である以上この肉体は私ではなく私を構成している現象だ
ナツ
ただその映画をみてる私がどうなる?
その肉体も映画であるというのか?

いや、認識するものだから肉体はない
だから肉体じゃなくても例えば霊みたいなものでもいい
オレンジペコ
この世は全て錯覚って言ってる人もいましたね

そうだよこの世はすべて錯覚みたいなもんだ
実体はない
オレンジペコ
錯覚によって喜んだり悲しんだりするんだから世話ないな
ナツ
ではなぜ実体はないという結論に至る?

ふむ最終的には二分化するんだが、その道中が大事なんだ
ただ話すとクソ長くなるし誰も聞かない
ただ俺はこの境地をみんなにも味わってほしかった
それだけだ
オレンジペコ
え、その境地なんですか
この「道中」について、侍さんが読んだ本を参考にして後でまとめようと思います。
ナツ
一つの考え方として侍の意見は貴重なものだろうな
ただその理解の本質を深く知りたいものだったが

うむしてもいいが多分俺の言ってることじゃ理解できないと思う
ナツよその境地に達すれば一つの考え方ではなくすべての考え方になる
境地に達するには真に理解することが必要
達すれば真の理解など本来は無であるということが分かる
あんだま
僕はこの梵我一如の思想知って軽く鬱になったぞ。じゃあ今生きてるのってなんだんだって。
ナツ
無ならなぜ仕事をする?好きな人ができる?幸せを感じる?
生きてる意味は?

生も死も無だ

生きるということは現象だからな
オレンジペコ
なんか悲しくなってくる 無とか
あんだま
なんか達観してもライフハックに活かしにくかったから、その辺の植物になりたくなったぞ
ナツ
@あんだま そうだよなw

植物w

全てが無であることに悲観的になることはありません。万物が映画のようなものだとすれば、好きな映画を見ることだってできるはずです。その考え方でいけば過去の映画のifストーリーを見ることこそがタイムリープなのです。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。